80 years
1962/1965 1999/2004 photo photo2 chibi

父が撮られた年齢が、いまの僕の年齢、顔まで似てきました


河野晴也の写真集

......私の歴史資料です.......

Last Update/2011/01/21

上の写真は大正初期に撮られたものです。場所は、徳島縣麻植郡學島村三ッ島字一里松という山村です。

帽子をかぶっているのは祖父(昇平)と父(正通)です。盛装しているのは、父が脇町中学に進学 した記念に隣の川島村から
写真技師館をよんだのでしょう。祖父は当時小学校の校長でしたので、あの 変った帽子はもちろん正式でした。
ちなみに曽祖母は「スミエ」、祖母は「まさ」です。
18歳で父(正通)を産み、九人をそだてて、62歳で亡くなりました。今の婦人たちには想像できない かも知れません。
長男の正通は松山高校から東京帝国大学文学部に進み、哲学を専攻しました。「ヘーゲル」がテーマでした。
和服の着ているのは次男、義通です。養子に迎えられ、鈴木に改名しました。 東北帝国大学医学部で内科を専攻しました。
戦時中は陸軍に召集され南方(ビルマ)で終戦をむかえました。 夭折した二女がありましたが、写真は残っていません。
その後、ふさ、信通(京都大学工学部)、俊通 (海軍兵学校、62期)が生まれました。
元気でいられるのは「ふさ叔母」だけです。




「お遍路さん」といってもお分かりでしょうか。もう死語になりかかっています。88のお寺を巡まわり仏門に帰依する 人たちです。 蔵から右側が河野になります。上の写真がとられのも同じ時期でしょう。 お遍路さんが経を唱えています。持ち物に、同行二人、と書くのが通例でした。暖簾にあるのは、嘉助餅というお菓子屋でした。搗き立てのお餅を食べた記憶が ありますが、戦中材料がなくなって廃業してしまいました。よく見えませんが、縁側があり、お茶の接待がありました。 お遍路は、寒くなければ、寝ることもあったそうです。亡くなったとき、書き物もない人たちには埋葬される墓が 寺の隅にありました。無辺仏ですね。




母は、明治37年、山口縣大島郡日良居村に生まれました。
旧姓、岡本邑子といいます。廣島市で山中高等女學校を終え(大正13年)、
上京して、聾唖教育を二年で終了しました。一年間は普通の小学校(日比谷)で実習 し、
いらい、戦中まで国立聾学校に勤めていました。天職、といっていいと思います。
校舎はもともと東大植物園の反対側にありましたが、戦後、船橋に移転したようです。


父と母との出会いは、詳細に聞いています。
恋愛結婚のはしりだったようです。ある集会があり、岡本さんと
河野さんともども参加しました。そこで何が話し会われたのかは判りませんが、
突然、踏み込まれた警察に連行され、本郷署に留置されました。次の日、
ともども釈放されたのが縁になりました。「警察と恋愛」はあまり
とりあわせがよくありませんが、事実はそうなんです。母は「面白かった」と言っていました。
父は、「くだらん」といって取りあってくれませんでした。




これは、私と、若い夫婦、の家族写真です。
”職業婦人”と特殊な目で見られた時代でした。
母乳が停まるのは普通のことだったそうです。
私は牛乳派だった訳です。それにしては肥立ちがいいですね。

父は東大の桑田厳先生の副手でしたが、松山高校
のストライキを支援したことで東大から追放され
てしまいました。いらい、戦後になるまでの期間は、
母と父の辛い日々だったと思います。

宮本顕治氏の“回想の人びと”によく書かれて
います。ヘーゲル大論理学の訳との掛け持ち
だったのですから、たいしたものだと思います。


63年目になります。




父は、相生橋(爆心地から2.4km)の近くで被爆しました。たまたま大便中に爆風で大きなコンクリート製の 糞尿溜めのなかに落ち、気絶したあと、這い上がってみると”地獄の中”にいたと聞きます。幸いガラスによる怪我はありましたが、すぐ呉に 向かったのが一命を救ったことになります。奇跡の生還といっていいでしょう。

一年半まえ、私は、広島師範中学で科学学級にいくことになり、家族3人、広島市に 集まることになったのです。所が戦局が急速に悪くなり、父の判断で七月に退去することになりました。「戦場になる」と 考えたのです。そこで、母と私は七月に徳島に疎開し、父が残務整理をいていました。帰る一週間まえ、朝早くB29の飛来があり、500キロの爆弾が校舎のまえに 落ちました。大きな穴は今でも思い出します。一発だけだったのが不気味でした。多分テストだったのでしょう。 犠牲になったのはインドネシヤの留学生一人だけでした。

この写真は1947年に撮ったと思います。茫々とした廃墟でした。
阿品(あじな)から廿日市には薙ぎされた建物や木が残っていましたが、東に向かっては砂漠のようでした。


父は何年もドクダミを煎じて飲んでいました。白血病に効くと信じてのことです。幸い正常に戻ったら、これが良かった と皆に宣伝していました。かなり信じやすい性格だったのでしょう。ただ白血病スレスレの値が一年ぐらい続きましたから とても心配をいたしました。



徳島といえば阿波踊りといわれますが、戦後すぐの踊りは、こんなささやかなものでした(1947年)。
河野の前で披露中です。 よくみると草鞋(ワラジ)をはいている人もいます。下駄は少数派ですね。いらい盆にいったことがありませんので、 いまの隆盛はテレビで見るだけです。



林原耕三(耒井)氏です。父の恩師(松山高校)です。また、私の「伯父さん」でもありました。 「先生」っていったら怒られました。「おじさん」「おばさん」でいい。冗談じゃないよ。といわれてからは「おじさん」なってしまいました。
おじさんはまた夏目漱石の一番弟子でした。また、俳句では耒井として、俳句の音律論を唱えた独特な理論を 展開しました。
私は、高校から大学一年までわがままな下宿生活をさせていただきました。(肋膜炎の看病までお願いしたのです) 有難いとしかいいようがありません。食べ物がない時代です。おばさんがどんな大変さだったのか、しみじみと思います。

好きなのは

三つ栗の三つ合へば毬戀ふと見ゆ
明暗に錨しぬ落葉の港
蟇の聲かくも優しく夜更けけり

などです。

ボーク・ピタソン氏とピタソン・禎子さんです。羽田で撮りました。二世の河野禎子さんは、戦前、女学校に学びました。
ボーク氏は情報局で日本語・習慣を特訓したそうです。彼は、戦後の時勢にあわせて製薬会社に就職しました。日本でビックス・
ドロップスを有名にしたのも彼です。モーニングステーションの木島則夫氏との親交も、彼の語学力がプラスになった筈です。
彼は60才前後でN.Y.で脳梗塞に倒れ、まもなく亡くなりました。禎子さんはロスで元気にしています。

羽田では、トラップから地上におり、歩いてくるのが当然でした。機内に入ったこともありました。あの時代はかなりルーズでした。
待合室もバラック同然で、兵隊さん(GI)の宿舎かと錯覚させるものでした。葉巻の匂いがむんむんとしていました。
飛行機に注目してください。B29の機体をもとに作られたものです。散々なめにあった飛行機でした。プロペラの音には
独特の高音(タービン)がありました。朝、一つの市が灰燼になっていまうのが通例になった時期がありましたね。


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